この山の奥に 墓塔群がある
古い時代、市来は市来院(いちくのいん)といい、おおよそ現在の市来町と東市来町にまたがる範囲であった。
伝えられるところによると、奈良時代後期(770年代)大蔵政房が市来院の院司となり、鍋城に居住した。
鎌倉時代の寛元2年(1244年)大蔵氏の道阿弥陀佛(女性)が孫の惟宗政家に市来院の院司職(いんししき)を譲った。
以来、惟宗姓市来氏が市来院の領主として代々相続した。
この墓塔群の中には三代時家、四代氏家、五代忠家、六代家親の墓が確認されていること。
城のま向かいにあることなどから、来迎寺が市来氏の菩提寺として建立されたものであることは
ほぼ確実であろう。
墓塔 墓塔
室町時代の寛正3年(1462年)、市来氏第七代久家が、島津氏第十代立つ久に滅された。
立久は長里に龍雲禅寺を建立自分の両親の菩提寺とし、来迎寺領の水田三町歩等を取上げて寄進した。
従って、来迎寺はその後荒廃していったものと思われる。
丹後局 丹後局
ここに残っている墓塔群は鎌倉期から室町期にかけてのもので、貴重な文化財である。
なお、島津氏初代忠久の生母丹後局の墓と伝えられる墓塔には「文永十二年四月十二日」の記録があるが、
これは市来氏初代政家が祖母道阿弥陀佛から譲りを受けた三十一年目に当たり、当然政家の建立にかかる
ものと思われる。

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